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やらなかった後悔 < やった後悔となると人生が辛い

やらぬ後悔よりやる後悔という言葉がある。迷った時に背中を押す言葉として広く使われているが、最近はどうもこの言葉に懐疑的になってきたように感じる。何事に対しても、どうせやっても失敗して後悔するだけだからやめておこうとなるのだ。心の中の修造がどれだけ発破をかけても暖簾に腕押しといった感じで、心の中の私は頑なに体育座りを崩さないのである。

成功体験の違いなのか

もしや歳のせいだろうかとも思うが、まだ30歳手前だし守るべき家庭を持っているわけでもないし、正直どこかでのたれ死んだところで親以外は悲しまないだろうし、どうせそんな人生ならどこか発展途上国にでも行ってその日暮らしで過ごしてみるのも悪くないのではないかという気持ちになることもあるが結局やめておけば良かったとなるに違いないと思って私の微かな挑戦心はすぐさまお蔵入りされてしまうのである。

この得体の知れない感情はなんだろう、ひとえにプライドの高さなのだろうか死にたいと現実世界でも体育座りを崩さない生活を続けている。

 

そんな燻った生活を送っていると、ポジティブで何でも開口一番「やりたい」と言える人が眩しく見える。友人の1人にそういう奴がいるのだが、側から見て絶対無理だろうと思う仕事でも「やりたい」と言って精力的に取り組むし、マジックショーなどで観客の中から手伝いを募集される場面でもすぐ手を挙げて「やりたい」、バンドやろうぜと誘われて一回も楽器なんてやったことないのに「やりたい」、街中を歩いて美人と擦れ違おうものなら「やりたい」といった感じで、こいつのメンタルはどうなっているんだといつも驚愕の眼差しで見ている。失敗してもなんのそのである。

こういう人生だと楽しいのかも知れないなぁと思うが、不思議とそういう人生を歩みたいとも思えない。

 

この差は何なんだろうと考えるに、どうも成功体験の違いではないかとありきたりな結論に至った。ポジティブな彼は良く自身の成功体験をネタも交えつつ話してくれるが、私と言えば夜寝る前に昔の不成功体験を思い出して悶々としているばかりである。このままでは駄目だと思い、良かった思い出を必死で思い出そうとするのだが、全く思い出せなくてより一層暗い気持ちになる。三日三晩寝ずに思い出せば何かしら成功体験の一つや二つを絞り出せるのかもしれないが、それまでに思い出すであろう数多の黒歴史を想像すると気が滅入る。

言い換えると、やっておけば良かったことに対して、やらなければ良かったことが多すぎる。その事実の前に私の足はひとりでに体育座りの形となり、もうここから一歩も動かないぞ!という意思を一層硬くするのである。

 

ふと思ったが、金と一緒で、成功体験は成功体験を多く持つものに集まるのかもしれない。成功体験を資本に新たな成功体験を生み出し続けるブルジョアジーもいれば、資本となる成功体験がなく挑戦心を喪失してしまう貧民階級もいる。これはまさに世の中の資本主義が直面している格差の拡大と同じ構造である。成功体験にトリクルダウンが起こるはずもないので、この格差はただ一方的に拡がるのみというのが悲しいところだ。

 

こうなったら革命しかない。成功体験ブルジョアジーの成功体験を奪って我々の手に再分配させるのだ。ブルジョアジーの記憶をデータで吸い出して、我々の記憶に埋め込むのである。そうすれば、我々は未体験の成功体験を我々の手に取り戻すことができる。

まずは革命の首謀者を探さなければならないが、革命の旗振りなどという困難な仕事をやり遂げられるのは素晴らしい成功体験を持つ者でしかなし得ない。よって首謀者を決めるのは無理だろう。また、成功体験を奪うための超ハイテク機器を開発する者も選ばなければならないが、そのような高度な技術力を備えた者はきっと数多の成功体験を経ているだろうからこれも無理だ。

つまり、成功体験を得るには成功体験を得なければならないという構造的なトートロジーに帰着してしまい、私は今日も体育座りを続けるしかないことを再発見したのである。辛い。

 

※参考文献

21世紀の資本

 

あとがき

つまりは家にこもってダラダラが一番ということ。

最近は通常攻撃の神というスマホゲームにハマりすぎて人生が台無しになっている今日この頃。w

通常攻撃の神

通常攻撃の神
開発元:DAERI SOFT
無料
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スキルにも頼らず通常攻撃をひたすら繰り返している主人公を見るだけで、なんだか共感が湧いてしまうものです。

 

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